ウォッチング

 ここはデジタル工房スタッフのひとり言のページです。工房から周辺の地域を眺めて、生活文化の香りをみなさんにお伝えします。
 スクール&ラボの「デジタル工房」は、池袋から東武東上線で二十分の「志木駅」北口を降り、歩いて2分のところに在ります。「志木」は東京への通勤圏にあって、ベットタウンとして急速に開発されたまちです。高層のモダンな住宅群の志木ニュータウンは、都市開発の優れたモデルとして全国的にも知られています。江戸時代からこのまちは、荒川の支流である新河岸川の舟運で栄えてきました。古い歴史をもち、戦前までは、静かなたたずまいをもったまちだったのですが、最近では、ショッピングに便利な大型店舗の進出も目覚ましく、まちの風景は急速な変貌を遂げました。

 ウォッチングの第五回(第一回第二回第三回第四回第六回第七回第八回はこちら)は「星野家の人々」についてです。


星野家の人々

 文化十一年(1816)の「引又宿絵図」を眺めて見ましょう。

 引又宿絵図1

 引又宿絵図2

 新河岸川と柳瀬川の合流点の近くには「引又河岸」の船着場があり、井下田回漕問屋を経て、市場の大通りへとつながります。市の立った大通りの両側には商店が軒を連ねています。

 さきにも紹介したように、用水に沿った市場通りには、星野・村山・三上の苗字が目立って多いのですが、この三つの姓は、引又草分けの三姓と云われ、近世初期にこの地区が開発された当時の開拓者から出た古い家系とされています。その中の一つ星野家は近隣各地にも拡がり、それぞれの地区で有力な地歩を築きつつ、いまでも綿々と続いています。一族はすべてが同じ家紋を使っており、誇り高い星野家の格式が偲ばれます。志木市の真言宗智山派の名門、宝憧寺の寺紋も星野家の家紋と同じですが、有力な檀家であった星野家から家紋が贈与されたとする説もあります。

 古地図「引又宿絵図」に描かれた市場通りのほぼ中央に、名主星野半平と記された一際大きな館が目に入ります。この絵から当時の星野家の総本家が広大な邸宅を構えていた様子が窺えます。

 さて弘化四年(1847)、二十二才でこの星野家に迎えられた養嗣子(半平と名乗る)は、引又宿の名主役を継ぎましたが、町民の紛争を調停することに優れた手腕を発揮しました。また知識人でもありました。江戸時代には自治集会所があって、「会所」と呼ばれていましたが、名主であった星野家の屋敷は近隣の人々のよきコミュニケーション・センターとなり、半平さんは星野家の「会所」で、名主を辞めた後も地区内の多くのトラブルを仲裁し、解決しました。星野家の会所は有力な集会所であり、半平さんの発言力は大きかったのでしょう。

 幕末のころ、彼は品川の御台場まで船に乗って視察に出掛け、現在の板橋区、高島平で行われた役人の大砲の演習を見学しました。まちの情報通として、明治維新の時代には、ペリーの率いる黒船の来航、川越藩から浦賀への出動、各大名による防備固め、黒船の浦賀沖からの退去などについて、多くの見聞を記録し、これらを詳細に日記(「星野半右衛門日記」〜半平はのちに襲名して半右衛門と称しました)に書いています。この日記には身の回りに起こった日常の生活なども詳細に記され、当時を偲ぶ貴重な資料(志木市の指定文化財)となっています。

 二代の半平さんが残した「引又宿古絵図」と「星野半右衛門日記」は、志木市の歴史を知る上できわめて重要なものですが、これらは、市の文化財委員長をされている神山健吉さんの調査によってはじめて世に出たのです。埋もれていたこれらの文化財がどのようにして見出されたか。そのときの状況を神山さんからうかがってみることにしましょう。

 神山健吉さんは次のように話されています。「星野半右衛門さんの曾孫、モトさんがお住まいになっていた逗子に伺ったのは、昭和四十八年(1973)のことでした。初対面だったのですが、歴史的な料を蒐集するために志木から来ましたと説明すると、快く、いろいろなものを出してきて下さいまして、それが、「星野半右衛門日記」や、「引又宿古絵図」でした。ビニール袋の中に入れてあり、のりがみんな剥がれていました。拝見しますと、大変貴重なものでしが、それらを丸まった形のままで貸して下さいました。ところがお会いしたのが六月でしたが、八月頃にモトさんは亡くなってしまうのです。その上、息子さんの和正さんが、昭和五十年に亡くなるのです。大変早死で、四十代半ばだったのですが、今は和正さんの奥さん、律子さんとその息子さんと娘さんがおられ、奥さんは「茜」という染物のお店を開いています。」

 星野家の会所の跡はその後どうなったか。半右衛門は明治六年に戸長(のちの町長に当る)をつとめたのち、明治三十年代に裏に引っ込み、隠居所に入るのですが、星野照二さんというその息子さんが明治四十年代の始め頃、やはり町長を勤め、明治の町政に大きな足跡を残しました。残念ながら早死で、四十三年頃に亡くなります。星野家の跡地はその後警察署となり、さらに明治の終ごろ原林吉に引き継がれました。原林吉の開設した「朝日屋」(薬問屋)の建物は、二代目原林三、三代目原昭二の継承のよって現在に至り、すでに百年が経過しました。

 神山さんの調査によって、星野家の歴史がつぎつぎと分かってきたのですが、その日記を通して志木市史は明らかに、その厚みを増してきました。古絵図、日記を発見された神山さんの功績はきわめて大きいと思います。

 神山健吉氏