ウォッチングの第一回(第二回、第三回、第四回、第五回、第六回、第七回、第八回はこちら)は、志木市の古い歴史の一こまに焦点をあてることにしましょう。最初に紹介する話題は新河岸川の舟運と「井下田回漕問屋」についてです。
さっそく江戸城にあった紅葉山御殿を分解して、用材を川越に移築することになり、その運搬には陸路より効率的な新河岸川による水運が選ばれました。新河岸川の舟運はこのときはじまったとされています。また川越からは農産物が江戸に送られ、その後次第に新河岸川の舟運は整備されて、ついに川越と江戸との物資交流の大動脈となりました。
江戸と川越との物資の交流のため、新河岸川の舟運は欠かせないものとなり、現在川沿いに建っている志木市市役所の下流、柳瀬川と分岐する地点に舟着場が設けられました。当時この辺は引又村といわれており、その河岸(引又河岸)に、川越藩主の命令によって、荷物の運送を取り扱う「井下田回漕問屋」が開業しました。
「井下田回漕問屋」の敷地は、浦和、所沢を結ぶ県道が、バイパスと分岐する地点にあり、現在では道路となっていますので、往時のたたずまいを偲ぶことはできません。
しかし、「井下田回漕問屋」を支えてきた井下田家は、初代から十八代にわたり綿々と引き継がれたのです。特に十六代慶十郎、十七代四郎、現在の当主、十八代井下田慶一郎氏はそれぞれ、舟運に代わる交通機関として東武東上線「志木駅」の誘致、市長として志木市政に、また志木駅前開発などに貢献されています。井下田家に伝えられた古文書は580点にのぼり、志木市の歴史の重要な資料となっており、これらをもとに、十七代の四郎氏は「引又河岸の三百年」(非売品)を執筆されています。
以上四郎氏が執筆された本を参考にして「井下田回漕問屋」を紹介しました。