ウォッチング

 ここはデジタル工房スタッフのひとり言のページです。工房から周辺の地域を眺めて、生活文化の香りをみなさんにお伝えします。
 スクール&ラボの「デジタル工房」は、池袋から東武東上線で二十分の「志木駅」北口を降り、歩いて2分のところに在ります。「志木」は東京への通勤圏にあって、ベットタウンとして急速に開発されたまちです。高層のモダンな住宅群の志木ニュータウンは、都市開発の優れたモデルとして全国的にも知られています。江戸時代からこのまちは、荒川の支流である新河岸川の舟運で栄えてきました。古い歴史をもち、戦前までは、静かなたたずまいをもったまちだったのですが、最近では、ショッピングに便利な大型店舗の進出も目覚ましく、まちの風景は急速な変貌を遂げました。

 ウォッチングの第一回(第二回第三回第四回第五回第六回第七回第八回はこちら)は、志木市の古い歴史の一こまに焦点をあてることにしましょう。最初に紹介する話題は新河岸川の舟運と「井下田回漕問屋」についてです。


井下田回漕問屋

 ときは江戸時代、寛永のころにさかのぼります。埼玉県西部の中心として知られる「川越」は、かつて江戸城北方のもっとも重要な防衛拠点だったのです。川越は徳川幕府にとり、きわめて重要なまちでした。江戸と関係の深い史蹟の残る川越は、いまも「小江戸」といわれていますが、寛永十五年(1638)大火に襲われ、市内の重要な建物である東照宮、喜多院などが焼失してしまいました。当時東照宮は三大東照宮の一つに数えられており、その再建のために幕府は大変神経を使ったのです。

 さっそく江戸城にあった紅葉山御殿を分解して、用材を川越に移築することになり、その運搬には陸路より効率的な新河岸川による水運が選ばれました。新河岸川の舟運はこのときはじまったとされています。また川越からは農産物が江戸に送られ、その後次第に新河岸川の舟運は整備されて、ついに川越と江戸との物資交流の大動脈となりました。

 江戸と川越との物資の交流のため、新河岸川の舟運は欠かせないものとなり、現在川沿いに建っている志木市市役所の下流、柳瀬川と分岐する地点に舟着場が設けられました。当時この辺は引又村といわれており、その河岸(引又河岸)に、川越藩主の命令によって、荷物の運送を取り扱う「井下田回漕問屋」が開業しました。

船付場の跡から栄橋と志木市役所を望む

 「井下田回漕問屋」の敷地は、浦和、所沢を結ぶ県道が、バイパスと分岐する地点にあり、現在では道路となっていますので、往時のたたずまいを偲ぶことはできません。

  井下田慶一郎氏    井下田回漕問屋は右に分岐するバイパス入口にあった

 しかし、「井下田回漕問屋」を支えてきた井下田家は、初代から十八代にわたり綿々と引き継がれたのです。特に十六代慶十郎、十七代四郎、現在の当主、十八代井下田慶一郎氏はそれぞれ、舟運に代わる交通機関として東武東上線「志木駅」の誘致、市長として志木市政に、また志木駅前開発などに貢献されています。井下田家に伝えられた古文書は580点にのぼり、志木市の歴史の重要な資料となっており、これらをもとに、十七代の四郎氏は「引又河岸の三百年」(非売品)を執筆されています。

 以上四郎氏が執筆された本を参考にして「井下田回漕問屋」を紹介しました。