ウォッチングの第二回(第一回、第三回、第四回、第五回、第六回、第七回、第八回はこちら)は、第一回に引き続き志木市の古い歴史の一こまに焦点をあてることにしましょう。今回紹介する話題は「野火止用水といろは樋」についてです。
野火止用水は志木市のメインストリートを貫通し、新河岸川に流れ込んでいたのですが、寛永二年(1662)、引又の対岸、宗岡地域の地頭岡部左兵衛は、新河岸川を越えて送水し、灌漑用水に利用しようと考えました。そのため家臣の白井武左衛門に命じて巨大な架け樋を造らせたのです。この架け樋は四十八個の木の樋をつないで造られていたことに因んで「いろは樋」と名付けられ、長さは230メートルにも及びました。しかも舟の通行を妨げぬよう川面から4〜5メートルも高いところに架けられたのです。樋は「江戸名所図絵」に描かれ、この絵は国立公文書館内閣文庫に所蔵されています。
用水は大きな桝を中継していましたが、その桝の一つはいまでも残っています。もう一つの桝の前には「桝屋」というお店(いまの感覚では、コンビニエンスストアのような)があって、人々に親しまれていました。