ウォッチング

 ここはデジタル工房スタッフのひとり言のページです。工房から周辺の地域を眺めて、生活文化の香りをみなさんにお伝えします。
 スクール&ラボの「デジタル工房」は、池袋から東武東上線で二十分の「志木駅」北口を降り、歩いて2分のところに在ります。「志木」は東京への通勤圏にあって、ベットタウンとして急速に開発されたまちです。高層のモダンな住宅群の志木ニュータウンは、都市開発の優れたモデルとして全国的にも知られています。江戸時代からこのまちは、荒川の支流である新河岸川の舟運で栄えてきました。古い歴史をもち、戦前までは、静かなたたずまいをもったまちだったのですが、最近では、ショッピングに便利な大型店舗の進出も目覚ましく、まちの風景は急速な変貌を遂げました。

 ウォッチングの第二回(第一回第三回第四回第五回第六回第七回第八回はこちら)は、第一回に引き続き志木市の古い歴史の一こまに焦点をあてることにしましょう。今回紹介する話題は「野火止用水といろは樋」についてです。


野火止用水といろは樋

 「引又」(現在の志木市本町)には舟運の引又河岸のほかに、もう一つの名物がありました。それは現在の本町一、二丁目、かつては「市場」と呼ばれていた通りの中央を流れ、新河岸川に注ぐ「野火止用水」です。この用水は、寛永十六年(1639)に川越城主となった松平伊豆守信綱が自領であった「野火止」の原野を開拓するため、灌漑用水として掘削したものでした。当時江戸市民に飲料水を送るため、玉川用水の工事がはじまっており、信綱はこの水に着目したのです。小平市の辺りから分水し、短期間でこの用水の工事を完了させました。

 野火止用水は志木市のメインストリートを貫通し、新河岸川に流れ込んでいたのですが、寛永二年(1662)、引又の対岸、宗岡地域の地頭岡部左兵衛は、新河岸川を越えて送水し、灌漑用水に利用しようと考えました。そのため家臣の白井武左衛門に命じて巨大な架け樋を造らせたのです。この架け樋は四十八個の木の樋をつないで造られていたことに因んで「いろは樋」と名付けられ、長さは230メートルにも及びました。しかも舟の通行を妨げぬよう川面から4〜5メートルも高いところに架けられたのです。樋は「江戸名所図絵」に描かれ、この絵は国立公文書館内閣文庫に所蔵されています。

 引又宿絵図1

 引又宿絵図2

 伊呂波樋古絵図

 用水は大きな桝を中継していましたが、その桝の一つはいまでも残っています。もう一つの桝の前には「桝屋」というお店(いまの感覚では、コンビニエンスストアのような)があって、人々に親しまれていました。

 明治四十一年に建造された桝の写真