ウォッチング

 ここはデジタル工房スタッフのひとり言のページです。工房から周辺の地域を眺めて、生活文化の香りをみなさんにお伝えします。
 スクール&ラボの「デジタル工房」は、池袋から東武東上線で二十分の「志木駅」北口を降り、歩いて2分のところに在ります。「志木」は東京への通勤圏にあって、ベットタウンとして急速に開発されたまちです。高層のモダンな住宅群の志木ニュータウンは、都市開発の優れたモデルとして全国的にも知られています。江戸時代からこのまちは、荒川の支流である新河岸川の舟運で栄えてきました。古い歴史をもち、戦前までは、静かなたたずまいをもったまちだったのですが、最近では、ショッピングに便利な大型店舗の進出も目覚ましく、まちの風景は急速な変貌を遂げました。

 ウォッチングの第六回(第一回第二回第三回第四回第五回第七回第八回はこちら)は「薬の問屋「朝日屋」の昔といま」についてです。


薬の問屋「朝日屋」の昔といま

 さて以下の三枚の写真は、明治時代のころの薬問屋「朝日屋」の景観で、それぞれ明治の後半、昭和の初期、現在の景観です。

 朝日屋(明治後半)

 朝日屋(昭和初期)

 朝日屋(現在)

 その庭に咲く春の花(ぼけ、れんぎょ)

 その庭に咲く春の花(雪柳、大桜)

 その庭に咲く春の花(紅梅と白梅)

 この通りの商店が最近ほとんど建てかえられてしまったいま、これらの写真は昔を偲ぶ貴重な資料となってます。

   つぎに紹介するものは、昭和50年代に、三代目当主がロータリークラブで話された内容の要旨です。ロータリークラブで、原 昭二会員のイニシエーションスピーチから。

 「わたくしが代表者を務めている朝日屋原薬局の紹介をさせて戴きます。祖父原 林吉は現在の朝霞市内間木、浜崎の出身です。志木市本町に移ったのは百年位い前のことになります。当時この地方きっての名医として知られていたお医者さん、三上医院に助手として務めましたが、ここで学んだ医薬品の知識を手掛かりとして、「くすりや」を開業し、医薬のほか、絵具、染料などの化学品を幅広く取扱いました。

 お店は新河岸川の舟運で賑わっていた市場大通りの一遇にあり、古くからの回漕問屋、井下田回漕店の近くです。かつて小田歯科医院があったところで、大地主の西武さん(現在倉庫業)と長谷川釣具店との間に所在しました。当時長谷川さんは小間物屋さんの名店として、お店は大変繁盛していました。この通りには、酒造り、お米屋さん、呉服、雑貨や紙問屋が軒を連ね、どちらの店にも番頭さん、小僧さん、女中さんが大勢働いていました。因みに現在朝霞市駅前で盛業中の「岡田屋薬局」を開業された岡田さん(現在の当主のお父さんに当る)は、長谷川小間物店に務めていました。才能をもった方で、その頃小学生であったわたくしの父は、絵や工作の宿題をしばしば手伝って貰ったそうです。この話しをわたくしは母から聞きました。

 当時わたくしの祖父は、仕入れのため夜中に志木を出発して、徒歩で東京まで出掛けなければなりませんでした。途中新河岸川か荒川の畔りで夜明けを迎え、そのとき目に入ってきた太陽の日の出の美しさに打たれ、将来の繁栄をも祈って「朝日屋」という屋号を定めました。この「朝日屋」という屋号はかなりひろく近隣に知られるようになりましたが、また自分の名前に由来する「ハラリン」という別の呼び方もお客さんに親しまれました。角三のマーク(その意味は不明ですが、取引先からしばしば「角三さん」と呼ばれていました。なおこのマークは家屋の鬼瓦にも刻まれています。)を定め、絵具、染料を取り扱い、また大谷石などの建築材料、カーバイト、セメント、ガラスなどの新しい工業製品、エビスビールも販売しました。当時流行していた間けつ熱(おこり)の特効薬としてキニーネを輸入、これを製剤した丸薬(がんやく)の「天龍丸」を創製しました。これによって生薬(きぐすり)屋の基礎を固めたようです。

 現在の場所に移ったのは明治末年のことになります。そのころ「浦和商業銀行」(その後八十五銀行と合併して埼玉銀行、さらにあさひ銀行となる)は、この地域でもっとも重要な金融機関として君臨しており、志木支店もその瀟酒な建物を誇っていました。移ってきたのはその筋向いに当ります。いまはJA(農協)になっています。それ以前、江戸時代から明治中期に掛けては、藩主であった星野家の敷地でした。以来百年近い年月が経過しましたが、現在もそのお店と家屋は、ほぼ当時のままの姿で残っており、営業は今日まで続いています。わたくしの父は、はじめ浦和中学に通い、その後東京の中学に移り、薬学校(現在の熊本大学薬学部)を卒業して薬剤師免許を取得しました。百数十種類の製剤、胃腸病の薬から眼病薬、皮膚病薬などを研究・創製、「文明社製薬部」という製薬所を設け、当時の著名な大衆誌であった雑誌「キング」に広告を出して通信販売も行いました。

 父林三の代となってから、祖父林吉夫婦は、「鳩ヶ谷バス」によって志木市と直結していた浦和駅の前、バスターミナルの直ぐ近くに土地を求め、隠居の暮らしに入りました。一方父林三は、地域の振興を意識して消防組で組頭を、また武徳会で役員をつとめ、自宅の庭に弓道場を設けました。しかし商売には熱意を失ってお店は番頭さん任せとなり、宴会を催すために離れを建築して酒と宴会に明け暮れました。裏手の隣地にあった「清久屋」さんという酒造りから菰包みの清酒を取り寄せていましたので、何時も樽酒を備えており、これを訪問客に振る舞っていました。タクシーを使って東京に出かけ、上野の待合には入り浸たりでした。その待合は「孔雀荘」といい、わたくしは子供のころ連れていかれましたが、不忍池に面していた大きな景観を眺めた記憶があります。父親の派手な暮らし、荒い金使いのため家計は傾き、母親はやり繰りに苦心をしていました。父は第二次大戦が始まっても毎日一、二升の酒を嗜んでいましたが、遂に心臓麻痺で亡くなりました。私が十八才のときでした。戦後は母親こうのひたすらな努力によって営業を続け、お店を維持してきました。

 戦時中の中学生時代には模型飛行機の製作を通じて航空機の設計を夢み、旧制の高校では文学に酔い、文学、ないしは美学への道を志向していたのですが、わたくしは家業を継ぐために志を曲げ、薬学に進学しました。

 大学卒業と同時に薬剤師国家試験に合格しました。薬学、化学の勉学への興味を断ち難く、引き続き研究生活の継続を希望し、お店の営業で母を助ける二本建ての生活がはじまりました。十年の間東京大学薬学部で有機化学の研究に携わり、引き続いて東京薬科大学で薬化学の教授を務め、三十年にわたり天然物有機化学、合成化学、分析化学の領域の研究を行いました。わたくしが関わった研究の中で得られた成果のうち誇りうるものは、第一にトリカブト毒成分の構造決定、アルプスサラマンダーの分泌する毒物「サマンダリン」の全合成と構造確定への寄与、さらに分離法として最も重要な「クロマトグラフィー」の理論的、技術的開発、対掌体分子の分割法の開拓、分子間会合構造の解明です。なお最近は薬学の新規領域としての「情報薬学」の確立に努めています。」